

乾燥糸こんにゃくを作っているのはアンビコ社という会社です。 同社は、日本とインドネシアの架け橋になりたいという願いのもと、 第二次世界大戦終戦後も現地に駐留していた日本人(故石井正治氏)によって 創られました。
インドネシアは山中にこんにゃく芋が多く自生することから、こんにゃくの原産地として有名です。しかし、こんにゃくの食習慣が無いため、 ただの雑草としての扱いしか受けていませんでした。そこで、アンビコ社は現地の貧しい人々の自立を支援する手段として、 こんにゃく芋に目をつけ、日本へ輸出することを考えはじめました。
食用として本格的に日本に輸出されたのは、昭和38年(1963年)からで、当初は農民が採取した自生するこんにゃく芋を買い付けるというものであったのですが、 品質・収穫量にバラツキが大きかったため安定して収穫できるよう栽培計画を立てました。
現在は、栽培と買い付けの両方で原料を調達し、年間1000トンのこんにゃく芋が工場に入荷されています。
インドネシアの農民は、生産手段としての労力はあるものの、日本の農協のような組織が無く、販売の手段を持っていません。 このため安定した現金収入が少なく、生活の水準はおおむね低いのが現状です。 こんにゃく芋の採取及び栽培は、このような農民たちに安定した現金収入の道を開き、生活の向上に寄与することになります。
しかし日本へのこんにゃくの輸出は、芋や粉などの状態では事実上輸入禁止になっているため定常的な収入にはならなかったのです。 5年に一度くらいの頻度で、政府の管理下においてこんにゃく粉(切り干し芋)の輸入を行うことがあるのですが、これでは安定した仕事にはなりません。 農民たちに安定して仕事をしてもらうには、こんにゃく芋を加工し製品として日本に輸出することが必要となりました。
そこで、様々なこんにゃくの加工品を検討したのですが、従来市場に出ているものと同じものでは既存のこんにゃくメーカーを圧迫する事になり、 ある程度の反発が予想されます。もちろん事業としてのみ考えれば、市場を取り合う競争も当然であるが、 故石井氏の「こんにゃく事業を日本とインドネシアの架け橋とする」という基本理念から外れることになります。
このような背景から、どこも作っていない新しいこんにゃく加工品を、ということで研究し出来たのが「乾燥糸こんにゃく ぷるんぷあん」です。 こんにゃくを乾燥して再び水戻しをして、もとの食感に戻るというものは当時はなく、こんにゃくの歴史の中で画期的な成果であったと言えます。 乾燥糸こんにゃくは、今までに無いような新しい食べ方もでき、既存のこんにゃくを圧迫することなく、 新しい需要を作ることができます。
この事業が伸びていけば、インドネシアの人々に、自分たちの土地からの資源で新しい源泉が与えられる一方、 日本の人には新しい食べ方で様々な料理にこんにゃくを使ってもらい、健康的な食生活を提供できます。 また、単に事業として発展するということだけでなく、石井会長の口癖である「真の意味の福祉」につながると考えられます。